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池田 晶子(いけだ あきこ、1960年8月21日 - 2007年2月23日)は、日本の哲学者、文筆家。東京都出身。慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻卒業。作家の佐藤哲也とは幼なじみ〔出会いは小学校高学年で、実際にはいわゆるもの心つく前の幼なじみ同士というわけではない。〕で御田小学校、港中学校で同窓である〔佐藤亜紀HP「大蟻喰の生活と意見」2002.2.12〕。 == 来歴・人物 == 港区立御田小学校〔4年次に編入〕、港区立港中学校(現:三田中学校)、慶應義塾女子高等学校を経て慶應義塾大学文学部哲学科卒業。高校時代は登山に熱中する。大学時代、哲学者木田元に師事する。容姿に優れアルバイトとして雑誌『JJ』の読者モデルを務める。これにより経済的にも自立し、進路を巡って両親との葛藤もあり、在学中に一人暮らしを始めるようになる。卒業後は就職はせず、モデル事務所に籍をおく。このとき『文藝』の校正の仕事をしたのがきっかけとなり文筆活動に専念するようになる〔『文藝春秋』85(7):442-3〕。以後、朝日新聞記者(論説委員)であった父親の影響を受け文筆の才を示すことになる。その後埴谷雄高との交流をきっかけに『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』(1987年、河出書房新社)を上梓するも、かつて全共闘闘士であった担当編集者と喧嘩をし、自ら同書を絶版にする。言葉と精神の仕事のはずの言論出版界の陰険さに失望するとともに、数年間文筆業界では「干された」状態にあった。 その後『事象そのものへ!』(法藏館、1991年)の連載で復帰し、専門知識や用語に頼ることなく、日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語ることで、多くの読者を集める。現代の思潮や流行している解釈に迎合せず、自分の考え、自分の言葉だけで存在と宇宙について思考をめぐらし、その執筆活動は哲学エッセイというジャンルの草分け的存在にもなっている。 古代ギリシアの哲学者ソクラテスの対話篇を現代に復活させた『帰ってきたソクラテス』(新潮社)シリーズや、中学生・高校生向けに語りかけ的文体で書いた哲学の入門書『14歳からの哲学―考えるための教科書』(トランスビュー)などが話題を呼んだ。また文芸批評家の小林秀雄をこよなく尊敬し、2004年には、彼の著作タイトルを拝借して『新・考えるヒント』(講談社)を書き下ろしで発表した。 アカデミックな世界とは距離を置き、あまり同時代の哲学者との関連性を論じられることが少なかったが、亡くなる直前のハンス・ゲオルク・ガダマーとドイツで対談するなど、活動の幅は広かった。『朝まで生テレビ』にパネリストとして招かれたなどを除いて、映像メディアに出演する機会は少なかった。 旧姓によって文筆活動を行い、エッセイ等においても既婚である事実や配偶者に触れることは全くなかった。肉親(両親)に関する話題はあったが、むしろ愛犬を話題とすることのほうが多かった。夫とは、子供は絶対に産まないという条件で結婚したとされる〔 日本財団会長笹川陽平ブログ「池田晶子と哲学」 〕。 晩年は『週刊新潮』の「人間自身」(以前は「死に方上手」というタイトルだった)、『サンデー毎日』で「暮らしの哲学」を連載するほか、『Hanako』で人生相談の回答者としても登場していた。アカデミズムとは一線を画したが、『14歳からの哲学-考えるための教科書』の出版を機に、中学校や高校に赴き「存在について」「考えるということについて」などの主題について講演を行った。 2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去。『週刊新潮』連載の「人間自身」最終回「墓碑銘」は死後掲載となり、ここでは目前に控えた自らの死を怯むことなく韜晦気味に論じるという透徹した冷静さを見せている。 没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりnobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりnobody賞が創設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「池田晶子 (文筆家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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